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会津藩下屋敷跡 | ||
〜約33,000坪の広大な敷地の屋敷跡〜 | ||
関連人物:会津藩 | ||
所在地:東京都港区三田二丁目 | ||
現在の港区三田二丁目、三ノ橋から慶応義塾女子高校、慶応義塾中学校の敷地辺りは、かつての会津藩下屋敷跡。 付近には綱坂や綱町三井倶楽部がある。 三ノ橋は古川(渋谷川)に架かる屋敷脇にあった橋であったため、肥後殿橋とも呼ばれていた。 |
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▲三ノ橋 (肥後殿橋) | ▲江戸絵図第六号 |
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▲国道1号 7Kp (三田二丁目) | ▲網坂 |
東京にある幕末維新の現場を歩く | ||
東 京 | 皇居・皇居内堀・日本橋・中央区・日比谷・紀尾井町・霞ヶ関・麻布・ 赤坂・虎ノ門・芝公園・新橋・神保町・九段下・築地・両国・江東区 |
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渋 谷 | 南青山・六本木・千駄ヶ谷・渋谷・代官山・目黒・世田谷・大田区 | |
品 川 | 品川・白金高輪・三田・お台場・青物横丁・東大井・西大井 | |
上 野 | 上野・上野桜木・下谷・浅草・本郷・春日・南千住・北千住・綾瀬 | |
池 袋 | 護国寺・東池袋・巣鴨・板橋・高島平 | |
多 摩 | 日野・高幡不動 | |
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興禅寺 | ||
〜賊軍の責任を負って自害した会津藩家老たちが眠る〜 | ||
関連人物:会津藩 | ||
所在地:港区白金6−14−6 | ||
鳥羽伏見の戦いで、大敗を喫した会津藩は、賊軍の汚名を着せられた。 その責任を負って自害した家老たち(神保長輝(修理)・萱野長修(権兵衛)・黒河内松斎ら)が眠っている。 なお神保長輝(修理)は上記の会津藩下屋敷内で切腹している。31歳 |
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萱野長修、自刀の地(保科藩広尾下屋敷跡) | ||
〜会津戦争の全責任を負った、会津藩家老の自刀〜 | ||
関連人物:萱野長修・会津藩・柳沢信吾・稲森いずみ | ||
所在地:港区広尾5−7 | ||
現在の、天現寺交差点、広尾5丁目アパート3号棟、広尾公園あたり。 かつては会津藩と血縁関係があった保科藩藩邸の下屋敷跡。 この屋敷で、会津藩家老、萱野長修(権兵衛)は、元藩主、松平容保をかまい、会津戦争の全責任を負い自刃した。 墓は、興善寺に祀られている。 松平容保の義姉、松平照姫は自刃の前に句を送っている。 夢うつつ 思ひも分す 惜しむそよ まこと ある名は 世に残れとも |
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↑ 東都麻布之絵図(1851刊) ←現在の天現寺橋交差点。明治通りと外苑西通りが交差する。 歩道橋より、保科邸跡を望む。 |
↑天現寺橋より古川を河口方面に臨む。 古川は、渋谷を上流とする二級河川。渋谷からこの天現寺橋までを渋谷川と呼び、 天現寺橋より東京湾河口(竹芝付近)までを古川と呼ぶ。 |
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|会津藩下屋敷跡|興禅寺|萱野長修自刃の地| |
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