幕末維新の現場を歩く <No.11 佐賀>
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幕末維新の現場を歩く>佐賀>赤松地区 | ||
赤松地区(佐賀市)の幕末史跡、ゆかりの地を散策Walking | ||
赤松地区(佐賀市)にある幕末維新の現場を歩く |
|佐賀城跡|大隈重信生家|副島種臣生家跡|官軍墓地| |
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〜佐賀鍋島家の居城〜 | ||
関連人物:佐賀藩 | ||
所在地:佐賀県佐賀市城内2−18−1 | ||
1602年、鍋島直茂により築城着手。1611年完成。 当時は5層の天守閣を備えていたが、幾度かの火災で焼失するも再建。 明治7年の江藤新平らによる佐賀の乱では、占拠され攻防戦によ建造物の大半を焼失。 その佐賀の役の戦闘による弾痕が残り現存する鯱の門及び続櫓は国の重要文化財に指定されている。 |
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〜早稲田大学創設した政治家、大隈重信の生まれ育った家〜 | ||
関連人物:大隈重信 | ||
所在地:佐賀県佐賀市水ケ江2−11−11 | ||
大隈重信の生家と、東京進出前まで生活していた旧宅が残されている。 1838年、大隈重信が生まれた生家は国の史跡に指定されている。 |
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生家に併設された大隈重信記念館には、遺品等が展示されている。 その中には東京で襲撃され、失った右足の義足など展示されている。 写真撮影は禁止のため入館パンフレットより |
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〜佐賀の七賢人のうちの一人。政治家、書家副島種臣の生誕地〜 | ||
関連人物:副島種臣 | ||
所在地:佐賀県佐賀市鬼丸町7−18 | ||
現在の佐賀県社会福祉会館あたり。 この佐賀の地で生まれ育った副島種臣(そえじまたねおみ)は、弘道館で学び、尊皇攘夷思想に傾く。 また京都で国学、長崎で英語を学んだ。 明治維新後は、外務卿(外務大臣)として諸外国との交渉を担当した。 征韓論で敗れ下野した後は、中国に渡り遊学した。 また書家としても活躍し、現在の佐賀新聞の題字を書いている。 |
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〜佐賀の役で戦死した官軍兵士の墓所〜 | ||
関連人物: | ||
所在地:佐賀県佐賀市中の館町7−11 | ||
明治維新によって、旧武士の不満が引き起こした騒乱、佐賀の役は、佐賀城を中心に戦闘となった。 この戦闘を制圧しようとした官軍の犠牲となった兵士が乾亨院に祀られている。 墓石は身分ごとに3基建っている。 |
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佐賀幕末維新史跡地図 | ||||||||||||||||||||
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